BEYOND LIFE AND DEATH

生死を超える

苦しみを増大させる、愛著・邪悪心・迷妄

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「ボーディサットヴァ・スートラ」(p.18)

 

第一部 脳波が明かす瞑想の全プロセス

第一章 条件がすべてを決める

 

◎苦しみを増大させる、愛著・邪悪心・迷妄

 ここで、「愛著」「邪悪心」「迷妄」という言葉と、そして、「聖慈愛」「聖哀れみ」「聖称賛」「聖無頓着」について説明をしよう。

 

 まず、「愛著」とは何か。

これは、古典仏教において「貧」と呼ばれていた煩悩である。

つまり、「貧り」。

「貪り」とは、この世の中において必要以上の対象に対する執着を表わす。

したがって、必要以上の執着を表わすということは、わたしたちをその世界へと縛りつける働きが存在するのである。

例えば例を挙げよう。

わたしたちの体を維持するうえにおいては、平均的に一八〇〇キロカロリーから二四〇〇キロカロリーぐらい食べれば十分であるといわれている。

もちろんこれは、体重・年齢・男女の性別等によって違ってくるわけだが、しかし、もしわたしたちが味覚に対してとらわれるとするならば、わたしたちは、より多くの食べ物を取り込むことにより、例えば糖尿病等の病気を引き起こすことになるだろう。

また、わたしたちがもし好きな異性がいたとし、その異性を手に入れることができ、結ばれたとして、その異性に対して強い強い愛情を抱くなら、その対象を結果的には縛りつけることになり、決して二人の縁というものは長く続かないはずである。

また、長く続いたとして、その縁の終わりである死のときどうなるか。

それはとうぜん、強烈な苦しみが生じるはずである。

そして、またその異性の存在する、この人間の世界、欲望の世界の下から四番目へと生まれ変わることは間違いない。

したがって、愛著を土台として行なわれるM・S・Aは、すべて不幸を招くのである。

 

 では次に、「邪悪心」とはどういう心の働きであろうか。

「邪悪心」とは古典仏教において「瞋」と呼ばれた煩悩のことである。

つまり、対象に対して、対象を破滅させてやろうとする心の働きである。

この「邪悪心」によって、わたしたちは、現象を正しく見ることができなくなるだけではなく、多くのエネルギーを使うことになる。

例えば例を挙げよう。

ある人がある人に憎しみを持った。

この憎しみを持つ心の働きは、人生における精神集中を、その憎しみということによって時間を費やすことになるだろうし、また実際、言葉、あるいは行動においても、その憎しみを土台として活動するわけであるから、蓄積された心はとうぜん憎しみ優位となる。

したがって、この憎しみは離反、あるいは別離、あるいは闘争といったようなものを生み出すのである。

そして人生の中心はこれらの要素になり、心の蓄積によって次の生は決まるわけであるから、とうぜん同じような要素を持つ魂の集合体である世界へと流転することになる。

 

 「迷妄」とは、どのような根本煩悩であろうか。

これは、古典仏教においては「癡」と表現されている。

この「癡」とは何か。

これは、この世界に存在する、そしてこの世界だけではなく、三界――欲界・形状界・非形状界すべてを通して存在する真実の法則に対して、まったく理解ができず、ただ目の前の喜びに心が縛られた状態を表わす。

つまり、“今さえよければいい”、あるいは、“今利益を得られることが幸せである”、あるいは、“この生きているうちに多くの楽しみを経験したい”等がこの「癡」による心の働きなのである。

したがって、この「癡」を土台として動くM・S・Aは、とうぜん、自分自身の持っている楽しめる限界の楽しみを経験するがゆえに、徳は消耗し、そして落下の道を歩くことになるのである。

 

 したがって、この愛著・邪悪心・迷妄によるM・S・Aのすべてが、わたしたちを不幸の道へ至らしめるということは、よく理解できたはずである。

 

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